五合庵への自動車道の途中に
乙子神社用の駐車場がありますがそこからですと急な階段を下りることになります。駐車場の手前に(車で2分)左への分岐道(駐車場なし)があり、そこから4分ほど歩くと
乙子神社に着く、足の悪い人はこちらから来ると平坦な道で楽です。
その途中に腐朽と雪のため茅葺保護の板金も崩れ落ちた民家がありました。この辺は現在もまだ住んでおられる茅葺民家はほかにも多くあります。
旧武石邸より新しい民家でしょうが、良寛生前の時にはあったと思われます。
さらに
乙子神社から下の方に道(歩道)があり部落に通じています。何のことはないその道を徒歩で3分ほど下ると部落の車道にでます。 当時良寛はこの道を毎日通り托鉢に出かけたのでしょう。
五合庵や
乙子神社は決して山奥にあるのではなく、当時は現在より部落人口は少ないとは言え、裏道(当時は参道)を5分ほど歩くと民家があります。
事実、草庵に客が来て酒がなくなり、良寛は客を待たせて部落の造酒屋(和久井家?)まで酒を買い(もらい?)にゆく距離です。 しかし待てど暮らせど良寛は戻りません。心配した客が道づてに捜しにゆくと、途中、あまりに美しい名月を客のことなどすっかり忘れて眺めている良寛を見つけます。
良寛は聖と俗の間にいたといわれていますが、精神的な距離でなく物理的な距離だけを考えるならメチャクチャ俗に近いところにいたことになります。しかし物理的な距離を隔てるものが越後には太古の昔からあります。それは日本海の水分をタップリ含んだ越後の冬の雪です。
この10年間は地球温暖化の影響か暖冬ですがそれでも50cmほどは積もります。
五合庵や
乙子神社のようにがけ下のような場所は吹きだまりとなってもっと倍ほど上積みされます。 おそらく良寛当時は1m以上は楽に積もって、さらに吹きだまりになっていたと思われます。
五合庵や
乙子神社は今は板戸ですが、良寛当時の五合庵などは
ムシロ戸?で床は土間にムシロ敷き?だったと言われています。
良寛は寒くて夜中に目が覚め、そのまま寝れずにおきていることもしばしばあったということです。
しかしこのような状況は
旧武石邸の民家の内装を見れば当時の農民も同じような境遇です。農民には妻も子供も食わせねばなりません、小作にも出なければなりません。 さらにある日、赤子を背負い二人の子どもの手を引いた
”物乞いの女性”が良寛を訪ねることもありました。
そうすると良寛よりも経済的に悲惨な人達、劣悪な環境で生きていた人達は越後の村々にもいっぱいいたことでしょう。
では良寛は乞食(こつじき)で村々をまわり、富める者や貧しい人達から施しを受けながら、花鳥風月を愛でて、好きなア-トの世界に浸っていたのでしょうか・・・・?
昨今、『清貧の良寛』ブームといわれていますが私はよく分りません。
ただ、私の中ではっきりしていることは良寛は決して『貧』をめざしたのではなということです。 良寛は『貧』を決して苦には感じませんでしたが、それを追求などはしていないということです。 それならば良寛は『清』をめざしていたのでしょうか・・・?
それはよく分りません、もう少し良寛をあちこち訪ねてみましょう。
(良寛は
子連れの”物乞い”に対して 今、自分自身も何も持っていないので庄屋の解良家に”物乞い”の紹介状を書きます。 さすが良寛です)
五合庵時代以降の簡単な良寛のあしどりです。
39才で故郷に姿を現した良寛は近郊を転々とし翌年40才で
『五合庵』(約40〜59才)に落ち着き、約20年間ここを本拠地とし数々の奇話伝説を残します。
還暦近くになり体力が弱りはじめた良寛は国上山の
『五合庵』(約40〜59才)を少し下った
『乙子(おとこ)神社草庵』(約60〜69才)に移り住みます。 その後さらに衰弱し、
遍澄(押しかけ法弟)や人々の世話で
『木村家の離れ』(薪小屋改造、約69〜74才)に移り、74才で示寂します。