*** 国上(国上寺)  谷川敏郎先生  ***

 『国上村郷土史』によれば、国上寺の文書に、聖徳太子が国上寺に登り、「雲上記」を記し、千手観音を安置した記録があるという。また役小角が、仏像を彫刻して安置したという。
 『義経記』には、「その夜のうちに国上といふ所に上がりて」とある。この「国上」は村名か山名かはっきりしないが、境内には義経が彫った仏像を安置する六角堂がある。
 「東鑑」には建久4年、五郎の弟曽我禅師が工藤一族の恨みを逃れて国上寺に滞在していたが、ついに追手の知るところとなり、鎌倉に護送されてしまった。
 伝説によれば、酒顛童子は分水町の砂子塚出身であった。その生誕の地を童子屋敷と呼んでいた。酒顛童子は顛がよかったが素行がよくなく、そのため国上寺に預けられた。それでも修まらず、ついに大江山に棲むようになって、源頼光に殺される結果になる。国上寺には、「酒顛童子絵巻」がある。
 国上寺の麓には、西行戻り石 がある。『温古の栞』によれば、西行法師が国上寺へ参詣しようとして、国上の集落までやってきた。途中で大きな石があったので、西行がその石に腰を下ろして休んでいると、八、九歳の子どもたちが、やはり山へ登るためにやってきた。
 その利口そうな顔を見て、西行は「これこれ、お前たち、何をしに山へ登るんだね」と尋ねた。すると子どもは、「山へわらびを摘みに行くのだ」と答えた。それを聞くと、西行は「わらび摘みに行って、わらびの『ひ』で手を焼くな」と言うと、子どもの一人がすぐに、「坊さんのかぶっている笠は何でできているんだね」と尋ねた。西行は「この笠は檜(ヒノキ)でできているのだ」と言うと、子どもは「おれたちがわらびに手を焼いても大したことはないが、妨さんよ、檜笠(ヒガサ)をかぶっていて、その檜の『ひ』で頭焼くな」と言ったので、西行は二の句がつけず、早々に立ち去ったという。
 これは日本各地にある「西行腰掛石」や「西行戻し」の伝説を組み合わせたものであろう。良寛の時代から越後に伝わっていたかどうか知らないが、良寛はこうした国上寺などにまつわる歴史を尊び、また伝承を素直に受け入れてきた。伝承を専重したというより、伝え守ってきた人々の心を、良寛は大切にしたのである。それが歌の「まゐりけらしも」の語にこめられている。


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